昭和44年05月16日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方のことを、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っている人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」

 「皆んなもその通りにおかげが受けられるぞ」とここんとこ。この御教えはある意味合いでは説きに説かれ、説き明かされたような感じが致します。そしてなかなか本当にそう仰るのだから、神様がそう教えて下さるのあるから、本気で生神を目ざそうと言う様な、心がなかなか起こりません。そんなにまではならんでもと言う様にして、折角こうやって御理解下さってあるのに、その御理解をそのまま頂こうとする、素直な人が極少ない。そんなふうに思いますね。
 皆んなも生神になれる素質、皆んな神の氏子じゃとこう仰る。おかげは生神金光大神と、これは生神金光大神の専売特許じゃない。皆んなもその通りにおかげを受けられると。こんなに有り難いお教えですからね。そういうお教えを下さってあるのですけれども、その通りに例えばそれを受けるものがない。皆んなもその通りにおかげが受けられると仰るけれども。皆んながその通りにおかげを受けようという気になる。本気でそこに焦点を置くと言うか、目標をおいての信心の稽古をしようとする者が少ない。
 けれども私は金光様の御信心はやっぱどうでもここん所をですね、生神を目指してのという信心でなからなければならんと思うです。そこでです矢張その通りにする者が言われる教られる通りに、本気でそれに努めようと取組して頂く、先ずそういう修行精神いうとね。それを神習せて頂こうとする素直さというものが必要だという事になります。そこで私思うんですね此方の事を神神と言うがとこういうね、此方の事を先生先生と皆んなが言われるが、と言う位な所から一ついかなければいけんのじゃないでしょうかね。
 そのひとつの生神への段階としてですよね。これは大変な事ですねぇ。先日あのう今度二十五日にここで、筑水信徒会の連合会の幹部研修会がここでございます。ここの御信者さん方はまぁ出来るだけ沢山出る事。よそからは支教会からは五名づつ以上の方達が出席しまして、朝十時からここでここを会場として信心研修がございます。そのまぁどの言う様な事を目標にテーマにして、そのう信心を進めるかと言う事をね。「信者としての自覚」金光教の信者としての自覚に立ってと言う様な事がまぁテーマです。
 皆さんそういう風な事を考えられた事が有るでしょうか。自分は金光様の信者だというその自覚に立って日常生活が出来る。こりゃ対外的にも自分は金光様の信者であるからと、いつもそういうところに気持ちをおいてです。どこで誰が見ておろうとも見ていなくてもです。言うならば背中に八ッ波の御紋章の入っておる、御紋付きでもて着おるような気持ちで。自分がもしつまらん事になればl金光教の信心がつまらんようになる。自分は合楽で信心の稽古をさせて頂いておる。
 自分がもし教えにもとったら合楽の教会のなおれになると、いう位なやはり自覚が必要だと。それにはですねぇ。先ずそのう信者氏子としての自覚ね。世界中の氏子とこう仰る。信心するものを氏子とこう言う。信者氏子とこう。信者と言う言葉をひとつ使っておられます。信者氏子としての自覚、そこでその氏子としてのそのう自覚というのは、どう言うところからと言うと私。いわゆる障子一重がままならぬ人の身と、こう教えられておられるが、もう本当にその人間氏子私共はですね。
 いわゆる何んにも出来ない無力なる、私であるという自覚に先ず立たなければならんとこう言われる。いわゆる障子一重がままならんという、我身であるという自覚に立たなければならない。そこから信心が始められる。段々信心が分かって来ると、いわゆる我屑の子という自覚が今度は生まれて来る。我屑の子という自覚。こうやって信心させて頂いておるがね、私程つまらん信者はなかろうというその自己反省ですね。反省をぎりぎり。いわゆる「見ること見ること自分を見ること」という事になってくる。
 自分というものを見極めさせて頂いきよると、自分のつまらなさと言うか見苦しさと言うかね、汚さというものが見えて来る。本当にこういう屑の子我に対してでも神様は、この様なおかげを下さるというところになって来るのですね。先ずその屑の子の自覚が出来ておるか。障子一重がままならぬ人の身であるという事が分かっておるか。そういうところが分からなければですね、私はそのう信者、信者氏子としての自覚というものは、生まれてこんと思うね。そういう例えば自覚に立つと同時にです。
 今日のこの十八節のところですね。ここへ参っている人々が皆神の氏子じゃとこう。生神とはここに神が生まれるという事でと。神の氏子とは生神になれれる素質を持っておるという自覚、私共一人一人はです。これは他の動物はそういう訳にはいかん。人間は万物の霊長だからともこうも仰る。いわゆる万物の霊長としての自覚。我屑の子であるという自覚。障子一重がままにならぬという自覚。
 自分んが自分で何ひとつ出来る事の無い、あなたのおかげを頂かなければ出来る事はないという自覚。それが出来て来る。信心が分かって来ると本当に私のような者がといゆうね。もう本当に私のような者が言う事の私自身の正体が分かって来る。そこから縋らなければおられん。本気で磨きもします。改まりも致しましょうと言う様な信心が、そこから生まれて来る訳です。と同時にそれと今度は反対のようですけれどもです、自分は生神様になれれるという素質資格を持っているという自覚。
 この辺が金光様の御信心の素晴らしいところだと思うですね。只自分を卑下すという事だけではない。かと思うとその反面には生神としての素質を備えておる私とね。そういう自覚に立って信心をさせてもらへと。まぁどう言う風にその時の会合でですね。氏子としての自覚と言う様な、どういうふうに皆さんはそれを研修しておいでられるか、知らんけれども。先ずここのところ、今日私が申します様なところをひとつ頭に置いておいて、そして研修会にかからしてもらわなければいけんと思いますね。
 だからならどうせねばならないかと、だからどうやらなければならないかという事になるのです。そこで私が今日も言うております。此方の事を神神と言うが、此方ばかりが生神じゃないと。皆んなもその通りのおかげが受けられるし、皆んなも同じだと。皆んなが生神様になれるんだと教えられているのですから。生神様と言うとあんまりこう遠いところにあるようであるから、先ずお互いがですね、言うならば取次ぎ者我という自覚ね。よく申します。一人一人がです先生にならしてもらうとゆう自覚です。
 というよりもまぁ皆んなに先生と言われる私。神様が先生という神格をおくって下さるというおかげ。そこんところぐらいなところは、お互いが早く目指さなければいけない。銘々ね。自分がおかげを受けた事をです。実意丁寧に人に話をしていくという。ですからもう信心そしておかげ。自分と言うもの信心そこにおかげを受けられたらね、もう早速その自分がおかげを受けた事を実意丁寧に、人に伝えていくという事が、始められなければなんという事が分かります。
 しかもそれがねそれが神になるのぞとこう仰るのです。実意丁寧に人に伝えていくという事がです。神へのお礼と同時にそれが神になるのぞ、生神になるいわば手始めだと言うのです。あぁ有り難い事になるんですね。ですから自分は金光教の信心は問われても、まぁだ説明もしきらんから話される。おかげを頂かれたらおかげと自分が自覚したら、もう人に伝えていけれる訳です。そしてその伝えられた人が導かれる導かれた人が助かる。一人助かれば一人の神とも仰るのですから。
 一人助かっていけば一人の神じゃとも仰る。十人助かれば十人の神になる訳なんだ。生神様への道は厳しいようであってね、本当の手近なところにある事が分かりますね。遠いところにあるようであって見近なところにある事が分かります。皆さん最近教団でも言われます中にね、総信者がね総取り次ぎ者としての自覚と言う様な事が言われます。信者の全部が取次ぎ者だ。それは今私が申しますような事です。おかげを受けた事を取次いでいく人にね。そういう私はおかげを受けてゆかねばならん。
 だからこの十八節は私共の信者としての自覚を促しておられるとゆう感じ。それを自覚に立とうとしないね。そげん生神様には生神様にはならんでんよかと。口では言わんでも、そう言う様なものがあるのじゃなかろうか。私はこの事をお願いをしてこれは頂けばそれでいいと言った様なね。ですからむしろそこから生まれて来る、修行精神というのは勿論ない。だからこの生神を目指すという事にはね。例えばあのうこりゃ増々私共、私が強うなって来る気持ちの中にですね。
 もう七十になったから八十になったから隠居しようと言った様な楽になろうと思う気持ちは、更々なくてですもう増々ですねえ。その有り難い修行に没入していきたいという願いが強うなってまいりました。言うなら死ぬる迄本気で御用に使うて頂こう。お役に立ちたい立ちたいという念願が、いよいよ強うなって来たという事です。ですからそういう心がね、やはりこれに生まれて来なければならない。先ず。神が生まれるという前に、そういう心が生まれて来なければならん。
 一年間は日参りをしょうとか。このおかげを頂く迄とか。それもまぁ区切ってですね、修行を区切ってそこに目当てを付くる為にはいいでしょうけれども。そのそこに感じるものはですね。一生が修行じゃと仰るその一生が修行ならばです。その一生がねつまらん修行苦労修行ではなくてね。本当に尊い修行尊い修行へと、その修行が高められていく修行にならして頂こうという事にならなければならん。ですから信者全部が先生になるという自覚を、先ずひとつ作らなければならないという事になります。
 今日はこの十八節からそういうところを分かって、いわゆる信者としての自覚をいよいよ高めてゆかなければなりませんと。同時にです。ここにあのう立教神伝、神の頼み私は今頃から申しておりますけど、この神様は御自身が助かりたいという神様だという事。みんなが助かる事よりもね。御自身が助かりたい。これが立教神伝にはっきりと現れておりますよね。天地金乃神を助けてくれと言うてから、はっきり仰っとられるね。金光大神に頼んでおられる事は、天地金乃神を助けてくれと。
 悲痛な迄に神様が金光大神に頼んでおられます。ですから本当に神様を助けるというかね。言うならばまぁそれをやさしゅう言うなら、神様がお喜び頂けれるような信心という事になるのです。そういう信心にはね、んなら私共各々がねこの立教神伝を受けたような心持ちにならせて頂いて、信心を進めて行かなければならん。ここでは立教神伝を読みませんからね。皆さんがまだよく知っておられない方もありましょうから。今日は立教神伝を、読ませて頂いきますからね。
 この立教神伝が皆さんの一人一人に下さったと思うて、その自覚に立って信心を進めてゆかねばいけないと思う。立教神伝。安政六年十月二十一日にこの立教神伝が下がったんですね。
 この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業をいたし、農業へ出、いいですか皆さんこれは金光大神が受けられたんじゃないですよ。皆さんが今受けておるんです。今日の十八節からならそうならなければ駄目なんです。その積りで頂いて下さいよ。これは金光大が受けらっしゃたんじゃない、今私達が銘々が受けているんでと言う、ひとつ思いで受けて頂かなければならん。外家業を致し農業へ出、人が願い出呼びに来もどり。願いがすみまた農へ出またも呼びに来。農業する間もなひとつし。
 来た人も待ち両方の差支えに相成り。なんと家業やめてくれぬか。其方四十二歳の年には、病気で医者も手を放し心配いたし、神仏願いおかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。と言うとられましょうが。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれと。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。
 此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれ。神も助かり氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くと。そういうあいよかけよで立ち行く世界の顕現が、ここに期せられる訳であります。私共が本気でひとつ、この立教神伝を受けた気持ちになって、今日私が申しました。先ず私共信者全部が、先生になる積りでと、言うなら全部取次ぎ者になるやはり自覚。
 その自覚の内容としてです。私は、何にも実は出来ないのだという、障子一重がままならぬと人の身という自覚。又は段々信心を進めていく事によって、いよいよ分かる事は、我無力であると同時に、我屑の子であるという自覚。そういう自覚からですね、自分の心の中に時偶でも自分で自分の心が拝みたい様な心。今ここに神が生まれるという、生神とはここに神が生まれると言う事であってとこう仰る様に。自分の心の中に時偶でもそのう信心の喜びと言うものが頂けれる。
 そういう喜びをいよいよ大きいものにしていくという事の為にね。神の子としての自覚霊長としての自覚。言わば取次ぎ者としての自覚をです、銘々が持たして頂いてです。自分がおかげを受けた事を人へ、実意丁寧に話をして行くのが神様へのお礼になる。それが又神になる。ひとつの手掛かりともなる事でどざいますから、そういう信心にならしてもらい、そういう信心の自覚を持って本気で信心の稽古をさせて頂きたいと思いますね。
   どうぞ。